‘礼拝メッセージ(抜粋)’
「闇の中の望み」2020/5/17
「闇の中の望み」
ルカの福音書23章32~46節
主イエスは、十字架を背負い「どくろ(ゴルゴタ)」と呼ばれる丘に到着しました。そこで十字架につけられます。十字架の回りにいた人々の立場には一つの共通点がありました。それは暗闇の中にあったということです。しかし、一部の人々は、その中に希望の光を見出しました。
●暗闇の中にあった人々
主イエスが十字架にかけられた時太陽も失われ「全地が暗くな」りました。その暗闇は物理的な闇だけではありません。①自分たちの立場や利益を守ろうとしたユダヤ人指導者やピラトの欲や罪深さ②ローマ兵や群衆の無知③犯罪人の体験していた死や苦しみ、などの闇が そこにはありました。それらは私たちの生涯や周りにもあります。
●その人々に主イエスは望みと光をもたらされました
主イエスはそのような闇の世界に希望の光をもたらしてくださいました。①自分を十字架につけた人のために「父よ、彼らをお赦しください。」(34)と祈りをされました。②ご自分の言葉、態度、そして当時起こった様々な事象を通じて救いの知識をくださいました。③そして犯罪人には「パラダイス」(43)を約束され、苦しみや死の恐怖にも希望をくださいました。
●私たちにも主イエスは望みと光を与えてくださいます
主イエスは、私たちにも望みと光を与えてくださいました。私たちも以前は罪や無知、そして死の恐怖の中にありました。それを主イエスは十字架の贖いにより、救い出してくださったのです。先日、関東圏などを除いて緊急事態宣言が解除されました。少しずつ、光が見えてきています。ですが、私たちは現在も闇のなかにあります。それは、目に見える形のものばかりではありません。聖書を通じ、祈りを通じて主イエスと父なる神に出会い、光を見出す生涯を歩みましょう。
「わたしの与える平安」2020/4/5
「わたしの与える平安」ヨハネ14:25~31
本日から受難週です。主イエスは十字架に架かるその前日にご自身の弟子たちと食卓を囲まれました。その際、弟子に「あなたがたに平安を与えます」(27)と語られました。今、新型コロナウイルスが拡大しつつあります本当に人の心に必要なのは主イエスが与えてくださる「わたしの平安」です。
●「わたしの平安」とは「父なる神の恵み」
主イエスの「平安」とはヘブル語の「シャローム」に近い意味を持っています。シャロームとは創造主である方からの限りない祝福とそれから来る安心です。不安とは、心配に思ったり、恐怖を感じる漠然とした状態です。その人の不安をはるかに越えた「神の祝福・恵み」が私たちには約束されています。
●その「わたしの平安」は父なる神の深い交わりから
聖書には全知・全能の創造者なる神が存在する、と書かれています。「私は山に向かって目を上げる。~私の助けは主から来る。天地を造られたお方から。」(詩121篇)とありますが、この「山」は自然界を造られた神の象徴です。詩の中ではその方に信頼を置き、そこに平安を見出しています。それは十字架を前にし、ゲッセマネで恐れと戦いながらも父なる神に信頼した主イエスの姿にも現されています。
●私たちもこの主イエスの「わたしの平安」に生きよう
平安や安心には土台が必要です。その土台を主イエスは私たちにくださいました。①まず、父なる神との深い関係です。それは十字架による贖いと復活を通じ、私たちが神とのつながりを回復することにあります。②聖霊の約束です。主イエスは弟子たちに「助け主」である御霊(26)が来られること約束されました。私たちはまだまだ先行き不透明な中にいます。だれもが不安な思いをもっているでしょう。しかし、私たちもこの主の約束に感謝し、日々歩みましょう。
「揺れ動かされない生涯の秘訣」2020/3/1
「揺れ動かされない生涯の秘訣」イザヤ書7:1~14
3月に入りました。3月は特別な行事が多く、気持ちも明るくなる時期です。ですが、新型コロナウイルスの件で社会全体が重苦しくなっている気がします。今回のイザヤ書にはイザヤの国ユダヤがイスラエル王国とアラムの同盟軍の侵略の脅威を受け動揺したことが記されています。同時に聖書にはそのような動揺に対する秘訣があります。
●私たちの心や社会は脆いもの
「林の木々が風で揺らぐように揺らいだ」(2)とあります。王の心もエルサレムの民の心も林の木々が風で揺らぐように動揺しました。アハズ王は20代だったようです。アハズという名前は「彼は握っている」という意味だそうですが一つの国を握ることはたやすくはありません。私たちの周りにも病気だけなく、災害や貧困、人間関係など動揺することが多々あります。ウイルスは見えないものです。逆に言えば、これだけ社会が発展しながら見えないウィルス一つに戦々恐々とし、社会がストップしてしまうもろさを感じます。
●私たちが信頼するものは何か。
そのような時、信頼すべきは何でしょうか。それは聖書に示された神のことばです。「主はイザヤに言われた」(3)とあります。主はこの世界を造られた創造主である方です。造られただけでなく、今も生きておられ、導き、助けてくださる神です。その神はアハズ王に「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」(14)と語り、神の助けのしるしとされました。そのインマヌエルとは2000年前にお生まれになられたイエス・キリストです。「インマヌエル」とは「神はわたしたちとともにおられる」という意味です。その神は「恐れるな、わたしはあなたとともにいる」(イザヤ41:10)と今も語ってくださいます。この創造主であり全能である方に信頼して歩みましょう。
「あなたがたはわたしの友です」2020/2/2
「あなたがたはわたしの友です」ヨハネ15:12~17
2月に入りました。この時期は各地でマラソン大会の行われる時期でもあります。多くのスポーツは、サポートするたくさんの人々がいます。また、一緒に練習したり、時には競い合ったりする友の存在は大きいことでしょう。今日は教会員の男性の納骨式があります。その方には良い友が多くおられました。聖書には様々な人間ドラマや教訓があります。その中で「友」ということも、とても多く出てきます。今回の箇所は主イエスが最後の晩餐で弟子たちに語られたおことばです
キリスト教の重要な教えの一つは「互いに愛し合いなさい」ということです。「神を愛し」「神があなたを愛されたように自分を愛し、隣人を愛しなさい」というものです。そしてもう一つは、主イエスご自身が「あなたがたはわたしの友です」(14)と語られたことです。
「わたしがあなたがたを愛したように」(14)とありますが、これは主イエスが弟子たちの足を洗われたことを示します。それだけでなく、何より、十字架の身代わりの死を遂げられ、私たちのために命を捨ててくださったことです(13)。「いつくしみ深き」という有名な讃美歌があります。作詞はアイルランド人ジョセフ・スクライヴェン (1819 – 1886)です。彼は闘病生活をしていた母親を慰めるためにこの詩を書いたと言われています。「イエスは私たちの罪や憂い、悩みを取り除いてくれます。悲しいときこそ、神に祈りを捧げましょう。どんな時でも神は変わらぬ愛で導いてくれます。」というものです。
私たちはこの主イエスに信頼しましょう。先に行かれた方も信仰のランナーとして全力で走り抜かれました。もちろん不安や苦しみも多々あったでしょう。ですが、多くの友に支えられてきました。私たちにも多くの友や、教会の仲間がいます。そして何より「真の友」である主イエスがおられるのです。
「目標を目指して走っているのです」2020/1/5
「目標を目指して走っているのです」ピリピ3:12~16
2020年、新しい年が始まりました。皆様にとって祝福の年となるようお祈りしています。今年はオリンピックが東京で行われます。オリンピックではマラソンがありますが、信仰の生涯もそのマラソンに例えられることがあります。今回のピリピ人への手紙にも示されています。
●彼の生涯には明確な目標があった
「その賞を」(14)とあります。世の中には様々な賞がありますが、パウロにとって賞とは復活の恵み(11)でした。復活とは救いの完成であり、ゴールを意味します。そのゴールに向かって走っていたパウロでした。またコロサイ3:1には「上にあるもの」とあります。それは「キリストのいのち」です。これは主イエスとの深い関係を示すものです。これらがパウロの目標でした。
●その目標に向かって常に前向きに生きたパウロ
長寿の秘訣は「何でも物事を前向きに考える」ということがあります。パウロは前向きな人生を送っていました。13節には「うしろのものを忘れ」「前のものに向かって身を伸ばし」(ストレッチ)とあります。ランナーが、少しでも体を前に突き出して、0.01秒でも早くゴールを切りたいと頑張るように、パウロもゴールを目指して、ひたむきに走り、身を捩るように自分を前に突き出しているのだ、というのです。
●それは私たち一人ひとりに求められるもの
「ですから、大人である者はみな、このような考え方をしましょう。」(15)とパウロは勧めています。「大人」には常識的な判断力が求められます。その判断から言えば復活を目指し、主との深い関係を求めることは自然です。新年を迎えました。昨年から成熟を目指して、という目標もいただいています。また各々の目標もあるでしょう。その中にも主イエスを知り続け、復活のゴールへと向かいましょう。