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‘礼拝メッセージ(抜粋)’

「義の太陽が昇る時」2022/3/7

「義の太陽が昇る時」マラキ4章
悲惨な戦争や災害が起こると、正義などあるのかわからなくなります。今日のマラキ書の4章2節には「義の太陽が昇る」とあります。この「義の太陽」が昇り、世界に真の正義と平和をもたらすことが約束されています。
●この「義の太陽」は主イエス・キリスト
  まず、結論的には「義の太陽」とは主イエス・キリストです。この本書は紀元前450年頃、書かれたと言われています。当時、信仰は空洞化し、神への不敬や不正がまかり通っていました(3:8、9、14等)。450年後、その「義の太陽」として来られたのが、主イエス・キリストです。主イエスは「曙の光」「異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光」とも呼ばれています。
●「義の太陽」である主イエスは、三つの恵みをもたらす
  主イエスは、私たちに三つの恵みをもたらします。①一つは本当の正しさです。「義の太陽」の「義」とは、何が正しいか正しくないかとの神の判断基準です。神は悪を見過ごさず、神の正しさをもってさばかれる方なのです。②本当のいやしです。光は人の心を温め、癒します。主イエスは多くの人々を癒しました。それは体だけではなく心も癒すのです。③義の太陽は活気をもたらします。光は活気をもたらします(4:2)。今、コロナ、災害、そして始まった戦争などで社会に元気がなくなっています。しかし、主イエスは私たちの心に活気をくださるのです。
●「義の太陽」である主イエスはすべての人に恵みをもたらす
  この預言書は当時の人々にだけでなく、すべての時代のすべての人々に語られています。「昇る」とあります。今、この「義の太陽」は昇っています。そして、この太陽はもはや沈むことはありません。永遠に昇り、義といやしと活気をもたらします。ただし一つ条件があります。「わたしの名を恐れる者には」ということです。これは創造主である神を敬い真実に生きようとする者です。この者には一層の恵みがあります。お互いも顔を上げ、この義の太陽である主イエスの光を浴びながら歩みましょう。   

「真の幸いへの道」2022/2/6

「真の幸いへの道」   Ⅰペテロ2:18~25 

  聖書の中には本当の人間の幸いと、その道が記されています。その道はイエス・リストの十字架です。聖書はイエス・キリストが十字架に架かったことが、人の真の幸せへの道だと語っているのです。では、どうしてその十字架が、人の幸せへの道なのでしょうか。
① イエス・キリストの十字架は私たちの罪のため
 イエス・キリストの生涯には十字架に架けられるような罪はありませんでした。ですが、人間の悪意のゆえに十字架につけられました。それは私たちの罪のためでした(24)。キリストはただ一度だけ、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れました。そして、その罪を帳消しにしてくださったのです。これを聖書では贖いといいます。これがイエス・キリストの十字架の意味です。
② イエス・キリストの十字架は、私たちの真の幸せのため。
 イエス・キリストの十字架の贖いの目的は、人が本来の在り方に帰るためです。聖書では多くの人々が人本来の生き方をしていない、と語っています。それは創造者である神を知らず、神から離れた生き方です。そしてそれは深い虚しさを生み出します。その解決は、人が本来の在り方に帰ることです。十字架という道によって、たましいの牧者、監督者である神のもとに帰るのです。だからこそ、十字架は、私たちの真の幸せのためなのです。
③ 私たちはイエス・キリストに感謝し、その幸せに生きよう
 24節には「私たちの罪を」とあります。私たちとはこの手紙を書いたペテロと手紙を受け取った人々、そして私たちすべてです。その私たちの罪の解決は十字架にあります。そしてそれは真の幸いへと続くのです。手紙の読者たちだけでなく、多くの人々が体験しているのです。 この年、多くの方々が「私たちの罪」の身代わりとなってくださったイエス・キリストを信じ、本当の幸いを見出してくださるように心から願います。また、この十字架に感謝して、真の幸いとともに歩みましょう。

「主の書物を調べて読め」2022/1/9

 「主の書物を調べて読め」  イザヤ書34:9~17    
 私たちが何を読むかによって、その人の人格や生涯に大きな影響がでます。情報が多い時代、何を読み、生涯の土台とすればよいのでしょうか。今回のイザヤ書34:16には「主の書物を調べて読め」とあります。
 ●「主の書物」には世界の始めと終わりが記されている。
 新年早々ですが、始めがあれば終わりがあります。聖書では、この世界そのものも、始まりと終わりがある、と記しています。今日の聖書の箇所もそうです。その代表としてエドムという国が記されています。それはこの世界のすべてに当てはまるのです。なぜこんな徹底的なことがなされるかというと、神は公平な方だからです。神は世界の悪を見過ごしているのではありません。悪に対しては最後にはその報復し、新しい世界を神は造られます。そのことが聖書には記されています。
●「主の書物」に記されていることは、決して変わることがなく成就する。  
 聖書には歴史の始まりから終わりまで記されています。そしてそれは決して変わることはありません。「これらのもののうち、どれも失われていない」とあります、とありますが「主の書物」に記されたすべてが成就するということです。なぜでしょうか。それは「主の口がこれを命じ、主の御霊がこれらを集めた」からです。聖書は神のことばです。この神のことばが歴史を動かすのです。
●だからこそ私たちは「主の書物」を読もう。
  聖書は世界の始めから終わりまでのことが記され、それは必ず成就します。16節には、主の書物(聖書)をどのように読むべきかを私たちに教えている重要なフレーズです。「調べて」は「つまびらかにたずねて」という訳の聖書もあります。通り一遍の表面的な読み方ではなく、より掘り下げるようにして読むことを意味します。一つひとつのことばに耳を傾け、自分のこととして受けとめて行くことです。そのように主の書物を調べて読んでいく一年でありましょう。  

「主はその御民を顧みて」2021/12/6

「主はその御民を顧みて」  ルカ1:67~80
  この年もアドベントを迎えました。暗闇が深ければ光も良く見ることができます。神の恵みもそのような一面があります。主イエスが誕生した約2000年前のイスラエルの国も暗い時代の中にいました。希望をなかなか見出すことはできませんでした。ですが唯一の希望は彼らが信じていたメシヤ(救い主)の出現でした。
 今回の箇所は「ザカリヤの賛歌」または、「ベネディクトス」といわれているものです。「ベネディクトス」とは最初の「ほむべきかな」のラテン語です。構造的には、二つの部分からなっています。前半は68~75節。後半は76~79節です。前半の主題は「救い」です。後半は、その「救い」を備えるザカリヤの子ヨハネについての預言です。その中心は、「イスラエルの神、主が」、「その御民を顧みて、贖いをなし」ということです。 それはイスラエルの民だけでなく、彼らを通じて全世界の民にです。真のメシヤ、救い主である主イエスがもたらしたものは、すべての民の罪からの救いです。
 今回、特に心に留めたいのは「主はその民を顧みて」という「顧み」ということばです。ここで「顧みる」と訳されたギリシャ語は「訪れる、訪問する」という意味です。「心をかける、世話をする」とも言えます。自分とかかわった者のところに訪れて、どこまでも心をかけて世話をし、面倒を見るというイメージです。ここには人間に対する神の計り知れない愛があります。主イエスの生涯は「訪問」の生涯でした。ルカの福音書を見て行きますと主イエスが様々人の所に訪問されたことが記録されています。そのお姿は暗い時代にあってどれほど人々の心を打ったでしょうか。「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」とあります。まさに真実の愛であり、世の光としての姿でした。
 最後に大切なことはこのアドベントの時期、この主イエスを覚え、心に受け入れ続けるということです。主イエスは今も私たちを顧み、訪ねてくださる方です。そしてその心のドアをたたき続けておられるのです。私たちはそのたたいておられる主の声を聞き続けましょう。 

「心を見る神」2021/11/1

「心を見る神」   Ⅰサムエル16:6~13
聖書の神は心を大切にされる神です。今日の箇所には、神が人を選ばれる様子が記されています。神は新しい王を選ぼうとされたのです。神はサムエルにベツレヘム人エッサイの家に行きなさい、と語ります(1)。その息子の中に新しい王がいるというのです。サムエルは自ら長男エリアブが王にふさわしいと思いました。前の王であったサウルはイスラエルの中で一番の「イケメン」で、背も高かったのです(1サムエル9:2)。エリヤブもそのようでした。その時、「主はサムエルに仰せられた。彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。」(7)と言われたのです。そして「人はうわべを見るが、主は心を見る」と語られました。「人は自分の歩みがみなまっすぐ見える。しかし、主は人の心を評価される。」(箴言21:2)とあります。人が何を考えているのか、それを理解し、判断できるのは全知全能の聖書の神以外にはありません。
その後、七人の息子以外にもう一人、末の息子がいました。彼は遠い荒野で羊の世話をしていたのです。この彼こそ神の意中の人ダビデだったのです。ダビデの心の特徴はその純粋さ、と言えます。純粋に神に信頼する心です。実際、この後、ダビデはゴリアテという敵と一対一で戦います。ゴリアテは強敵で彼を恐れたイスラエル人はだれも戦おうとしませんでした。ですが、ダビデだけは神の助けを信じて向かって行ったのです。そのような純粋な心でした。 
「主は心を見る」お方です。人は、人を表面では、ごまかせても、主である神をごまかすことは出来ません。その主の前に生きなければならないのです。人は、自分の心の限界や醜さを感じることもあるでしょう。世の中を決めているのは人の心です。聖書は多くの人の心が悪に傾いている、といっています。聖書ではそれを罪といいます。多くの人は「世の中はそんなものだ」と諦めてしまいます。しかし、神はその心も変えて下さる方です。人はうわべを見ます、しかし、主は心を見ておられる方です。私たちの心を見、評価し、そして変えて下さる神です。この聖書の神に信頼しましょう。

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