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‘礼拝メッセージ(抜粋)’

「目標を目指して走っているのです」2020/1/5

「目標を目指して走っているのです」ピリピ3:12~16

2020年、新しい年が始まりました。皆様にとって祝福の年となるようお祈りしています。今年はオリンピックが東京で行われます。オリンピックではマラソンがありますが、信仰の生涯もそのマラソンに例えられることがあります。今回のピリピ人への手紙にも示されています。

●彼の生涯には明確な目標があった

「その賞を」(14)とあります。世の中には様々な賞がありますが、パウロにとって賞とは復活の恵み(11)でした。復活とは救いの完成であり、ゴールを意味します。そのゴールに向かって走っていたパウロでした。またコロサイ3:1には「上にあるもの」とあります。それは「キリストのいのち」です。これは主イエスとの深い関係を示すものです。これらがパウロの目標でした。

●その目標に向かって常に前向きに生きたパウロ

長寿の秘訣は「何でも物事を前向きに考える」ということがあります。パウロは前向きな人生を送っていました。13節には「うしろのものを忘れ」「前のものに向かって身を伸ばし」(ストレッチ)とあります。ランナーが、少しでも体を前に突き出して、0.01秒でも早くゴールを切りたいと頑張るように、パウロもゴールを目指して、ひたむきに走り、身を捩るように自分を前に突き出しているのだ、というのです。

●それは私たち一人ひとりに求められるもの

「ですから、大人である者はみな、このような考え方をしましょう。」(15)とパウロは勧めています。「大人」には常識的な判断力が求められます。その判断から言えば復活を目指し、主との深い関係を求めることは自然です。新年を迎えました。昨年から成熟を目指して、という目標もいただいています。また各々の目標もあるでしょう。その中にも主イエスを知り続け、復活のゴールへと向かいましょう。

「新たな時代の始まり、クリスマス」2019/12/1

「新たな時代の始まり、クリスマス」
(ルカ2:1~20)
今日はアドベント、待降節の最初の聖日です。アドベントとはラテン語Adventus「キリストの到来」のことです。聖書ではこの世界は永遠であるとされています。同時に私たちの生きているこの今の世界、時代というものがあります。イエス・キリストの誕生は私たちの世界、そして今の私たちに新しい時代をもたらしました。そして私たちの生涯にも大きな変化をもたらすものなのです。
●イエスキリストの誕生した時代
1~8節には当時の社会の縮図を見ます。まず支配する者であるローマ帝国の皇帝アウグストゥスやキリ二ウス。そして支配される側の「人々」(3)です。その人々にも様々な人がいたでしょう。ヨセフは「大工」という当時普通の仕事をしていました。また羊飼いたちは当時ではさげすまれていた職業であり最も最下層の人々とされていました。そのような格差のある社会でした。
●その主イエスがこの世界に新しい時代をもたらした
そのような社会の中に主イエスは最も無力なみどり子としてお生まれになりました。ですが、その存在は政治や文化、社会の仕組みにいたるまで世界に大きな影響をもたらしています。それはこのイエスが「主キリストです。」(2:11)とあるように創造主が送られた「神のメシヤ」(救い主)だからです。
●主イエスは今の私たちにも新しい生涯を与えてくださる
この聖書の箇所に見る時代のもう一つの特徴は「暗闇」でした。圧政や貧困、差別が支配していました。その闇の時代に主イエスは「人の光」(ヨハネ1:4)としてこの世界にお生まれになられたのです。この方は私たちを羊飼いたちが「神をあがめ、賛美しながら」とあるように喜びに満ちた生涯へと変えてくださいます。2019年もあと僅かです。来年に向けて主キリストとともに新しい出発をするクリスマスとなれば幸いです。

「天の故郷での再会」2019/11/10

「天の故郷での再会」(Ⅰテサロニケ4:1~18)
本日はこの年の召天者記念礼拝です。越谷教会員、関係者として天に帰られた方々がおられます。天の御国に行かれことは大きな慰めです。ですが地上に残されたご遺族の悲しみは大きく、主の慰めを祈ります。この朝は主に会って天に召されたものは確実に再会できるという約束に心を留めてみます。
●キリストにあって召された者は再会することができる。
「こうして私たちは」(17)とあります。「私たち」とは①「眠っている人たち」(13)つまり先に召された信仰者です。召された信仰者は死んだのではなく、眠っているのです。②生きて主が来られる時を迎える人々。「生き残っている私たち」(17)とありますが、主イエスの再臨の時、生きている人々がいます。その人々は死を体験せず、空中で主とお会いするのです。彼らは皆、主イエスのもとで再会することができるのです。
●それは確実なものだ
「これらのことば」(18)、「主のことば」(14)とあります。当時は復活はないというような間違った教えが入り込んでいました。パウロはそういうテサロニケ教会の兄弟姉妹の不安を取り除き、主にある希望を持ち続けるようにと励ましたのです。その土台が「主のことば」です。パウロ自身の言葉ではなく、神のことば、約束だからこそ確実なのです。
●だからこそ私たちは希望をもって歩みたい。
信仰者の生涯には試練もあります。また多くの方々のように生きづらさを感じることもあるでしょう。時代も変わります。そしていつか死を迎えます。しかし、主イエスにある復活、そして再会の約束は不変です。だからこそ私たちは「互いに励まし合い」(18)、「高め合い」(3:11)「善を行い」(3:15)ましょう。そして天の御国で再会を信じ、希望をもって地上生涯を歩むことができれば幸いです。

「キープ・スマイリング」2019/10/11

「キープ・スマイリング」(詩篇23篇)
今はスポーツの季節です。ラグビーや野球など盛り上がっています。マラソンのオリンピックの選考会を兼ねたレースもありました。暑い中、42.195キロメートルを走り切るだけでも大変だと思います。シドニーマラソンに参加した新聞記者が日豪の応援の掛け声の違いについて記していました。日本では「頑張れ」「あと何キロ」というのが一般的ですが、豪州では「ウェル・ダン」(ここまでよく頑張った)」「キープ・ゴ―イング(走り続けて)」などがあるそうです。ある時「キープ・スマイリング(ずっと笑顔で)」という声を聞き励まされたそうです。聖書では「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝しなさい」とあります。その力は創造主である神へ信頼から来るものです。
詩篇23篇は、イスラエルの二代目王ダビデの晩年の歌と言われています。ここで、ダビデは、自らを一頭の「羊」、そして神を「羊飼い」としています。私たちの生涯は、荒涼な荒野を歩くような面があります。その荒野の中で、神は、緑の牧場、いこいの水のほとりに信じる者を導かれます。羊は流れている水を飲むことができません。ですので「いこいのみぎわ」という静かな水辺に導いてくださるのです。また敵の前や「死の陰の谷」(4)の中であっても」、神が守ってくださいます。それは「いのちの日の限り」とあり、人生のスタートからゴールまでです。そして、神はいつでも「ウェル・ダン」といって私たちを励ましてくだる方です。
だからこそ私たちも、生涯のこの神と歩むことができれば幸いです。そのためににはまず、この方を知っていきましょう。それは①聖書を通じ②教会に通うことによって③そして「わたしは道であり」(ヨハネ14:6)と語られたイエス・キリストを通じてです。私たちの生涯にはつらいとき、問題や課題にぶつかる時もあるでしょう。ですがこの神とともにある時、ダビデが体験したように神にある平安があるからこそ、「キープ・スマイリング」として歩むことができるのです。

「失望してはいけないことを教えるために」2019/9/1

「失望してはいけないことを教えるために」(ルカ18:1~8)
私たちはしばしば、様々な問題課題などで失望してしまうことがあります。しかし、主イエスは「いつも祈るべきであり、失望してはならない」(1)と教えて下さいました。このたとえ話に登場するのは、神を恐れず、人を人とも思わないような裁判官と一人のやもめです。彼女は、この裁判官の所に何度も出向いて、「正しい裁判を行ってください」と訴えたのです。それがあまりにもしつこかったので、裁判官もこの訴えを取り上げたという話です。
●失望しなかった女性の姿
彼女には幾つかの特徴がありました。一つは何の後ろ盾もなかった、ということです。聖書にはやもめが多く記されています。その多くは孤独であり、経済的にも困窮していました。また何より社会的な立場もありませんでした。しかし、彼女はあきらめない心を持っていました。何度も出向いて訴えたのです。
●私たちには神様という最高の後ろ盾がある。
私たちには確かな後ろ盾があります。それは「神ご自身」で 「まして神は」(7)とあります。私たちの神は公正な方です。正しいものは正しい、不正は不正としてさばかれる方です。同時に「放っておかれることがない」とあるように、必ず顧みてくだる方です。
●だからこそ私たちは、あきらめないで祈り続けたい。
「教えるために」とありますが、主イエスは私たちが失望しやすいことをご存知でした。私たちは神の御心ではなかったと勝手に判断して、あきらめてしまったために、どれほど多くの御業を体験できなかった事でしょう。私たちは、決してあきらめて投げ出すのではなく、また祈りっぱなしで忘れてしまうのでもなく、心から祈り続けようではありませんか。神は、公平であり、愛のお方なのですから。

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