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‘礼拝メッセージ(抜粋)’

「人生最大の発見」2022/11/6 

 「人生最大の発見」 
 マタイ6:25~34
私たちは日々、多忙な中にあります。そのせいで大切なものを見失ってはいませんでしょうか。今日の聖書の箇所は有名な主イエスの山上の垂訓です。主イエスはご自分の弟子たちと、その周りに集まった群衆に語られました。弟子たちも、群衆もほとんどがユダヤ人でした。彼らの多くは、その神の本質について見失っていた部分があったのです。それは神の深い愛でした。主イエスはその神の愛を見つける大切さを示唆されました。
まず、そのために「やめる」、ことです。主イエスは「心配するのをやめなさい」と語られます。具体的には「食べる、飲む、着る」とあります。当時の一般のユダヤの人々にとっては、何を食べるか飲むか、そして着るかは切実な問題でした。主イエスがここで戒めているのは、行き過ぎた心配や思い煩いのことですもっと大切なものを見つけるための心構え、といえます。
そして「見、考える」ことです。26節では「空の鳥を見なさい」とあります。聖書では神が世界を造られた、とあります。鳥も草花も神が造られたのです。そして神は人を造られました。ゆえに神は父なのです。「子」が当時のユダヤの人々、そして今の私たち、一人ひとりです。父親か子どもを養うのは当然の姿です。当時のユダヤの人々はこの視点を失っていました。この発見こそが、私たちの人生を大きく変えるのです。
最後に「求めなさい」ということです。主イエスは「まず神の国と神の義とを求めなさい」と語られました。「神の義」とは聖書では二つの意味があります。一つは神のみこころであり、それを求め、行うことです。もう一つは神から与えられた「信仰による神の義」です。マルチン・ルターが強調したのがこの「信仰による神の義」です。主イエスの罪の十字架によって私たちは罪がないもの、神の前に「義」とされるのです。これは神から与えられるものです。ここにも神の大きな愛があります。私たちは聖書に記された神の愛に心を留めて行きましょう。私たちの世界には神の恵みが溢れています。思い悩むのではなく、心配するのでもなく、立ち止まって神の愛に目を向けて歩みましょう。

「ととのえられた者 」 2022/10/30

「ととのえられた者 」   
 Ⅱテモテ3:10~17

この手紙はパウロがローマの獄中から愛弟子テモテに送ったものです。手紙を受け取ったテモテはエペソの教会を監督していました。エペソというのはトルコのエーゲ海要衝の地。古代地中海世界の大商業都市。十分に整えられた人となっていないと、素朴なテモテはこの大都会の困難な時代に太刀打ちできない状況にいたでしょう。
 「ととのう」ということば、流行っています。サウナと水風呂を繰り返すことによって、脳が整えられ大きな幸福感を得る。 また、高級時計のキャッチフレーズで「わたしが、ととのう」というのもありますね。パウロは、何によってととのえられよ、とテモテにいったのか。それは「聖書」です。サウナの暑さ冷たさの難行苦行によって整えられ、有用な人材となる、光り輝く装飾品で自分に自信を整える、そういうことではない、パウロやテモテと同じく私たちは「すべての良い働きにふさわしく」神のために、神の人と整えられたいと願っており、そのために聖書に親しみたいのです。
 聖書には神の温かさを感じます。「聖書はすべて神の霊感によるもので」とありますが、脚注にはこれは「神の息吹」と。昨日のライフラインで「いのち」とは、「息のあるうち」の略しているのだと聞きました。すなわち神は私たちに、ご自分の息吹を、いのちをくださったのですね。この温かさの中でなら、「教え、戒め、矯正、義の訓練」を素直に受けることができます。律法学者のエリートコースの厳しい光のともと、厳しく教育を受けたパウロ。そんなパウロもあたたかい光の中で主の息吹、イエスのいのちの息に触れ、変えられたのですね。
礼拝で開かれる聖書、月2回の読書会にも神の息吹がいっぱいです。日々の通読も幸いです。私のコロナストップの十日間のような休止符や、問題の壁の前で開く聖書。また、先週、先々週の聖会や特別な集会の時なども、神の息吹。良い働きにふさわしく十分に整えられた人となるために、聖書に親しみましょう。   

「選択の基準」2022/9/5


 メッセージ  「選択の基準」  創世記13 :8~18

私たちの生涯はまさに選択の連続です。どちらを選ぶかによって生涯が大きく変わることがあります。主の約束の地カナンに帰ったアブラムに二つ目の試練がやってきました。土地を巡る争いです。それは甥のロトとその一族との問題でした。その時アブラムがとったのは神にゆだねるという方法でした。 
●アブラムの選択の基準は目に見えないもの(信仰)
この時、アブラムの基準は目に見えないものでした。主への信仰です。14節に主がアブラムに語り掛ける箇所があります。ここに「さあ、目を上げて」とあります。そして主は彼に祝福の土地と未来を見せて下さいました。アブラムが見上げたもの、それは主ご自身とその祝福の世界でした。選択をロトに委ねたのは、主にゆだねるという信仰の現れでした。主への信仰という基準で選択をしたのです。それは目には見えませんが、確かなものでした。 
●ロトの選択の基準は見えるもの
10節にも「目を上げて」とあります。ロトが目を上げて見たのはヨルダン川の近くの低地でした。そこはとても潤い、豊かな土地でした。ロトはソドムに住みました。理由としては、そこが豊かに見えたからでしょう。しかし、それは表面上の豊かさでした。彼の基準は人間的な豊かさ、利益だったのです。同じ「目を上げて」でもアブラムとは見るものが違っていました。ロトは目の前の「見えるもの」に選択の基準をおいたのです。
●アブラムの選択の結果
アブラハムは「目に見えない」主に将来をゆだねました。その結果どうだったでしょうか。18節には主の約束された土地に住んだとあります。アブラムが住んだ土地は荒野の多い山地でした。見た目にはよくなかったもしれません。しかし、そこは主の約束の地であり、祝福を受けることができました。彼の選択の基準はそこにありました。これこそが信仰です。ぜひ、アブラムのように主とその祝福の世界に目を向けましょう。主を信じ、アブラムのように良い選択の基準をもって歩みましょう。  

「神とともに歩んだエノク」 2022/8/7

「神とともに歩んだエノク」     創世記5:12~27
創世記の学びも5章に入りました。アダムは5節で930年の生涯を閉じます。そしてまさに土に帰りました。聖書の家系の中心はセツに移ります。この章にはほとんど各自の生涯の説明はありません。しかし、エノクは「神とともに歩んだ」(22,24節)ことが繰り返され、「神が彼を取られたので、彼はいなくなった」となっています。今日はこのエノクについて学んでみましょう。
●神とともに歩んだエノク
 神に創造された人間は、神とともに歩むように造られました。エノクはその人間本来の姿で歩んだのです。「エノク」とは「神に従う」という意味です。当たり前のようですが、当時は当たり前のことではありませんでした。興味深いのは エノクの生涯には、転機がありました。エノクが65歳のとき、息子メトシェラの誕生が彼の人生を変える神のチャンスとなったのです。
●エノクは神によって取れられた
そのエノクが「神とともに歩んだ」結果は「神が彼を取られた」ということです。「信仰によって、エノクは死を見ることがないように移されました。神が彼を移されたので、いなくなりました。」(へブル11:5)とあります。 神の不思議な形で介入により、エノクだけが他の人とは違った形で、天に上げられました。それは、主イエスによって示される復活の予告とも言えます。「神とともに歩んだ」という一言です。わずか10文字のことばです。ですがこの10字程、価値の高いことばはありません。
●私たちにも神とともに歩もう
 私たちもエノクや先日、天に帰られた松本先生のように神とともに歩みましょう。神ととともに歩むとは、神のみことばに従う信仰生活です。エノクは、ただ消極的に神に従うのではなく、積極的に、自ら従ったのです。エノクの息子はメトシェラです。メトシェラは187歳のときに孫のノアをもうけます。そのノアも「主の心にかなっていた」とあります。エノクの信仰は継承されていたのです。お互いが神とともに歩みましょう。そして神にとられ、永遠の世界で神とともに生きる幸いを体験しましょう。

「神のことばによる希望」2022/7/11

メッセージ  「神のことばによる希望」   Ⅰペテロ1:22~25
拉致被害者、横田めぐみさんのお母様、横田早紀江さんは、長年、めぐみさんの救出のために活動してこられました。長い戦いです。その早紀江さんを支えているものがありました。それは聖書です。お話にもありましたように、早紀江さんは聖書に出会いました。その聖書のことばが、早紀江さんを慰め、励まし、希望を与えたのです。今回、お開きした箇所にはその聖書のことばが何か、何を私たちに与えてくれるか、が記されています。
●聖書は何か・・・変わることがない神のことばです。
Ⅰぺテロ1章24、25節には「人はみな草のよう。その栄えはみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは永遠に立つ」とあります。まず、ここには変わるものが記されています。「人はみな草のよう」とあります。それは人の世界です。人の世界は変わりやすいものです。先行きも不透明です。しかし、変わらないものがあります。それが聖書に記された神のことばです。主とは聖書に記された神です。この神はそのことばを文字にして私たちにくださいました。この神は、変わることがない神です。その神のことばも変わることはありません。人の世は変わっても変わることがない。「いつまでも残る」、それが、神のことばです。
●聖書は何を与えるか・・・変わることがない希望を与えます。
横田早紀江さんのトラクトには「私たちは覚えられている」とあります。私たちを決して離したり、見捨てたりされない方がおられるということです。それは聖書の神であり、そのひとり子主イエスです。詩27:10 には「私の父私の母が私を見捨てるときは主が私を取り上げてくださいます。」とあります。神も、そしてそのひとり子主イエスも私たちを見捨てず、覚え、守り、導いてくださる方です。神を信じたからといって様々な問題が解決し、何の苦労や試練もない生涯が与えられる、というものではありません。しかし、どんな時でもこの神に信頼し、希望をおいて歩むことできます。神のことばである聖書。そして、そこある希望をもって歩みましょう。

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