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‘礼拝メッセージ(抜粋)’

「主のみことばを信じて」2018/6/10

「主のみことばを信じて」 ルカ5:1~11
今日はペンテコステの礼拝です。復活したイエスは弟子たちに「聖霊が臨む」ことを告げ(使徒1:8)、天に昇っていかれました。そして10日後、五旬祭の日に使徒たちが集まって祈っていると、彼らは聖霊に満たされたのです。今回の箇所は天に帰る主が弟子に「聖霊によるバプテスマ」の予告をされ、弟子たちがイエスの証人となることを告げられた箇所です。この箇所から主を証しすることを学びましょう。
●復活の主を語る
「確かな証拠をもって」「四十日にわたって現れ」とありますが
主イエスは復活されてから、40日間使徒たちに現れました。その中心は主が復活し、生きておられることを確証させるためでした。イエスは死からよみがえられた後、いろいろな場所で弟子たちに現われています。それほど復活の事実を大切にされたのです。私たちが証しする中心は復活の主イエスなのです。
●神様にゆだねる
主は弟子たちに神の国のことを語られました。弟子たちは「この時なのですか」と問いかけます。主はその弟子たちに「それは、父がご自分の権威をもって定ておられると」(7)と告げられ、神さまにゆだねることの必要性を示されました。私たちもベストを尽くしても証がうまくいかないときなどには焦ったり、落ち込んだりすることがあります。そんなときは神さまにゆだねましょう。
●最後は聖霊の力で
主は弟子たちへ聖霊の力の必要性を語られました。聖霊の与える力の一つは愛と聖さです。2章におけるペンテコステ経験の核心は現象的な事柄よりも心の潔めでした。奉仕において、一番大切なのは、その動機である愛です、その愛をくださるのが聖霊です。そして聖霊は自由に、大胆に証する力を与えてくだささるのです。 これらをもって主の証人として奉仕しましょう。

「創造主の声を聴こう」2018/5/6

「創造主の声を聴こう」
詩篇19篇
音楽や絵画を聞いたり見たりするとその作曲家や画家の心を感じることができます。詩篇19篇は、神の啓示を讃える歌です。「啓示」とは、人間では到達できない真理を、創造主が人間に伝えることです。
●自然を通じての声
この詩篇には三つの声があります。第一の声は、「自然界からの声」です。連休で自然の中に出かけられた方もおられるでしょう。自然界は、確かに何かを語りかけています。聖書は、自然に意志があるとか、それが私たちを支配しているとは言っていません。この大自然を超えたところに、この大自然を造り、大宇宙を支配している神がおられると教えています。
●聖書の声
自然の声は素晴らしいものですが、限界があります。人の進むべき方向性への導きや問題の解決、そして生死の問題への解決も見出すことはできません。しかし、第二の声である「聖書の声」にはそれが明確に示されています。神は、ご自分の思いを人間の言葉で表わし、それを書物にしてくださいました。8節には「主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ」とありますが、聖書は私たちに真理を教え、真理を知る幸いを体験させます。
●人の声
第三に「人の声」「人間の言葉」もとりあげています。詩篇8篇ではダビデは、「人の小ささ」を感じていました。19篇でも自然界からの神の声、聖書からの神の声に対して人の言葉が、なんと不完全で不確実なものかということにが記されています。そのような時、素直に自分の罪を認めて、神にゆるしと助けを願う人は幸いです。「どうか、隠れた罪を・・・」(12)との祈りがありますが、この祈りこそ、この詩19篇の最も大切な部分とも言えます。私たちも自然や聖書から聞こえてくる神の言葉に心を向け、それに真実に応答する日々を歩みましょう。

「よみがえりの主を見る」 2018/4/1

「よみがえりの主を見る」
ヨハネ20:1~23
本日はイースターの礼拝です。先週は子たちのキャンプがあり、ザアカイのお話しがありました。彼は主イエスを求め、その結果、彼の生涯は変わっていきました。今回は主の復活の記事です。ここにも彼のように主を求めた人々の姿が出てきます。
●不器用ながらも主イエスを求め、愛そうとした人々
十字架の後、アリマタヤのヨセフとニコデモは主のご遺体を引き取り、丁重に葬りました。その費用は大きなものだったと想像されます。マグダラのマリヤは(ほかの福音書には他の女性たちも)週明けの早朝、真っ先に主の墓に来ました。主を否んだシモン・ペテロはマリヤから話を聞き、墓に駆け付けました。それぞれ不器用ながらも主を愛していたのです。
●その主は今も生きおられ、私たちの求めに答えてくださる。
主イエスは今も生きておられ、私たちの求めに答えてくださる方です。主は「マリヤ」と声をかけてくださいました。また不安に怯えていた弟子たちに会ってくださいました。またトマスにもお会いくださいました。疑い深いとされるトマスもヨハネ11:16を見ますと、「『私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。』」と告白するほど主を愛していました。それら一人ひとりに主はあってくださり、その求めに応じてくださったのです。
●私たちもこのよみがえりの主を求め、敬って歩みたい
私たちもこのよみがえりの主を求め、敬って歩みましょう。よみがえりの主は私たちに①新しいいのち(神のとつながり)②真の喜び③むなしくない生涯(Ⅰコリ15:58)を与えてくださいます。新改訳2017では「見ないで信じる人たちは幸いです。」と「たち」とあります。私たちすべてがその対象なのです。弟子たちは「見て喜んだ」とあります。主イエスは今も生きておられ、私たちの求めに応じてくださる方です。私たちはこの方を見続けましょう。そして主の素晴らしさや愛を体験し続けましょう。

「神が与えられた望み」2018/3/4

「神が与えられた望み」ルカ2:22~32
今日は東日本大震災からちょうど7年目を迎えます。今、尚、避難を余儀なくされている方々、また東北のためにお祈りしたいと思います。そのような方々にとってはなかなか希望が見いだせないことでしょう。ですが、聖書には確かな希望があります。続いてルカの福音書から見てまいりましょう。
●私たちが生きている現場、時代。
今回の箇所は主の誕生の記事です。主が誕生された時代は自分の意志だけでは生きられない時代でした。ヨセフとマリヤは皇帝の勅令で苦難の旅を強いられました。現代でも圧政や災害のためにそのような状態にある方々がおられます。また「宿屋には彼らのいる場所がなかった」とありますが、弱い人が顧みられない時代でした。また羊飼いが受けていたように格差や差別、という現実もあります。
●そのような私たちに神さまは希望をくださった
そのような私たちに神さまは希望をくださいました。それが主キリストです。皇帝は当時世界の最高権力者の一人でした。しかし「主」であるキリストはレベルの全く違う存在です。創造主ご自身だからです。その方はまず、社会の底辺にいた羊飼いたちに現れてくださった愛の方でもありました。そして私たちの「心の王」なのです。
●私たちもこの時代の中で希望を抱いて歩みたい
25節からはシメオンとアンナが出てまいります。シメオンは、「イスラエルの慰められるのを待ち望」んでいたとあります。アンナは八十四歳にもなっていましたが、救い主の到来を待ち望んでいました。彼らは、自分の「願望」が中心ではなく、神さまを信じ希望」をもって待っていました。聖書はこれを「待ち望む」と記しています。彼らは希望の土台である主キリストに出会い、抱きました。私も主キリストに心に抱き、希望をもって歩みましょう。

「主は心を見る」 2018/2/4

「主は心を見る」                                            (Ⅰサムエル16:1~13)

今週からオリンピックが開催されます。オリンピックの関心はやはりメダルを取るか、メダルの色は何かということです。それで選手の評価を大きく変えてしまいます。世の中ではそのように見える実績や結果が求められます。しかし、神様の視点は違っていて「心を見ておられる」のです。
●人の評価の限界
サムエルは尊敬されていた祭司であり、預言者でした。彼はサウルの代わりに新しい王を選ぶ際、エッサイの長男エリアブ見て「確かに、主の前で油を注がれる者だ。」と思いました。彼は容貌も良く、背も高い人物だったようです。しかし、主は彼ではないと告げました。尊敬されていたサムエルでさえ、そのように人を見ました。また彼の師匠であったエリもそうでした(Ⅰサム1章)。人の評価には限界があります。
●神さまの評価がある
主は「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。~人はうわべを見るが、主は心を見る。」(7)と語られました。そして末の子であったダビデが選ばれました。ダビデも含めてすべての人間は罪人であり、完全に心の清い人はありません。「心を見る」とは主が私たちの「心の状態」を見られるということです。17章でのゴリヤテの戦いでは彼の純粋に主に信頼する心が記されています。そのような心を主は評価されるのです。
●私たちも神さまの前に心を整えたい
選びの器であったダビデですが13節以下には神の助け(油に象徴)と訓練が求められました。神が私たちに求めておられるのは、まず、神様に真実に従って生きることです。ダビデはこのあと多くの失敗もします。でも生涯、神の前に誠実に歩もうとする心は変わりませんでした(Ⅰ列王3:6)。私たちもダビデのように心から主の前を歩むお互いでありましょう。

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